ワーケーション、グランピング、トレッキング、都心のあちこちで開催されているファーマーズマーケットもそうだろう。ここ数年の都市部のトレンドからは、“自然との距離を縮めたい”という、人々の意識が垣間見える。しかし、その自然を愛でたいといったふうの“意識”に反して、令和の米騒動に端を発する通り、自然の恵みである食べ物の問題が起こると他人事の大騒ぎだ。この矛盾した都市生活に対するひとつの解決策は、「マタギ文化」が今だに宿る北秋田市の人々の暮らしを知ることで見出せるかもしれない。自然と共存することで、その資源を生活の足しにしてきたマタギ。豊かな自然とともに、逞しく生活している農家さんたち。それらが交わった今の北秋田市における暮らしぶりを「ニューマタギイズム」として目を向け、この7月末(及び11月)にファーマーズマーケットに出店予定の農家さんたちに話を聞いていった。
SEEKING KITA-AKITA
日時:2025年7月26日(土)、27日(日) 10:00〜16:00
会場:国際連合大学・前庭(〒150-0001 東京都渋谷区神宮前5-53-70)
参加事業者:上杉組/近藤農場/栄物産/しらかみファーマーズ/鷹巣観光物産開発/ふかさわファーム/みんなの畑/やまだ農園
“山が遠のけば、旬の味も遠のいていってしまう”

上杉組の上杉操さん
家も山も、そのバランスを維持するには人の介入が欠かせない。建設業を営む上杉さんは、そんな感覚を山に入ることで再確認したという。山菜やクロモジ茶、そして阿仁スキー場の運営など、地域の自然を軸に事業を広げてきた上杉さんの活動には、自然とともに生きる知恵と、この土地への強い愛着が滲む。手をとり合える仲間の存在、そして何よりも美味しいという感動が、変化し続ける時代に翻弄されることなく、その歩みを一歩一歩着実に進めるための原動力となっている。
上杉組は、どのような事業からはじまった会社になるのでしょうか。
上杉:上杉組は昭和7年創業で、土木・建設、建築・解体などを行う建設会社で、アグリ部門は15年ほど前に立ち上げました。当時の我々の業界というのは、4〜6月の年度はじめにまったく公共工事がなく、何か仕事をつくらなければとまわりを見渡したら、山と自然が溢れていたんですよね。それで、山菜やキノコなどの自然の恵みを仕事にできないかと、体験収穫ツアーなどで阿仁の自然の魅力を伝えようと思ったんです。最近は我々の想いが伝わったのか公共事業の平準化が進み、端境期がなくなったことで春先も忙しくなりましたが、定年を迎えセカンドライフを楽しんでいる方々のご協力を得ることで、今でも例年通り、春先には山へ入りアグリ事業を営んでいます。

子どものころから山には入っていたのでしょうか?
上杉:そうですね。よく親と一緒に山に入って、タケノコ、ワラビ、ウド、ゼンマイ、きのこ類などの山菜をよく採っていました。当時はみんなそうだったと思いますよ。対して今は、移住者の方と一緒に山に入って、どんな山菜が採れるかを教えたりしているんです。例えば、山菜を見つけたときに、“3本あったら1本は残しておく”というようなことは、知らないとできないですよね。全部採ってしまったら、翌年に山に入っても山菜が採れなくなってしまう。
なるほど。山菜の採り方ひとつにしても、持続可能な方法があるのですね。
上杉:それをみんながわかってくれていればいいですけど、そういう人ばかりではない。自分もそうだけど、やっぱりアンテナを張ることで情報は入ってきますよね。だから、我々がこうやって山菜を人々へ届けることで、少しでも山や自然に意識を向けてもらえたらと活動している部分もあります。
上杉:最初は山でクロモジを採り、クロモジ茶をつくることからはじめたのですが、それはマタギの知恵なんですよね。クロモジ茶は煎じて飲めば薬がいらないとか、煮出すと塗り薬になるという言い伝えがあって。だけど、商品としてそれを謳うのは薬事法の問題もあるので、弘前大学の農学部の教授に成分を調査してもらったこともありました。今では30品目ほど展開するようになり、旬の山菜を多くの方に楽しんでいただけていると思います。

上杉:そのなかでも一番人気はタケノコ。高温のお湯で湯掻いたら一気に冷水に浸し、専用の機械で皮を処理していきます。資源を効率よく届けるためにオリジナルの道具を使ったりもしています。
こうした活動を通して、上杉さんの生活自体にも変化はありましたか?
上杉:山との距離感を意識するようになったことですかね。山には熊がいたり、この時期は山菜を採りに来る人間がいたりしますけど、熊避けの鈴と爆竹は必ず携帯するようにしています。逆に、持っていないと気持ちがわるくて山に入れないですね。それもまた暗黙の了解と言いますか、マナーみたいなものです。ほかの人も、熊なのか人間なのかわからなかったら嫌じゃないですか。
自然とともに歩んできた上杉さんが、ここ最近で感じている山の変化があれば、教えてください。
上杉:ここ最近は豪雨被害により、林道や作業道が甚大な被害を受け、復旧事業が間に合わず、入れる山が少なくなってきていることでしょうか。この先にゼンマイがたくさんあるのに、採りにいけない。人の手が入らなくなることで山が荒れ、バランスを崩してしまうんですよね。そうなれば、生態系も私たちの生活も変化しますし、そうやって山が遠のけば、旬の味も遠のいていってしまう。でも、私たちが旬の味を届け続けることで、山との距離を繋ぎとめることができるかもしれないですし、そういう意識が広がることで、山をとり巻く状況も少しずつ好転していくのではないでしょうか。
この仕事をしているからわかりますけど、家も山と一緒で、人が住んでいないと朽ちていってしまうんです。この辺りは、過疎化が進んでいたから空き家も多いのですが、幸いなことに、最近は移住者が増えてきている。二拠点で生活してくれるような方が月の半分でも住んでくれれば嬉しいですし、都心の人も地方の人も手をとり合って、一緒に考えられる状況が生まれたらいいですよね。
まずは食をきっかけに、「美味しい」から北秋田や阿仁地域に興味をもってもらうのがいいかもしれませんね。そのうちに山の入り方も学んでもらって。
上杉:若いマタギで山菜収穫ツアーをしている仲間もいるんだけど、そうやって体験をともにできるといいですよね。これからは若い人たちの時代なんだから、みなさん手をとり合って、頑張っていってもらいたいですね。私は、この集落で最後のひとりになっても生きていく自信はありますから(笑)。

上杉さんと山菜を採取・加工していた上杉組のみなさん
“出てきた農地を受け入れ可能な状況にする”

近藤農場の近藤さん夫妻
近藤裕太さんは、北秋田市でお米を育てる米農家。“令和の米騒動”などと世間を騒がせている昨今のお米をとり巻く状況を俯瞰しつつも、持続的にお米をつくっていける環境をつくるために日々身体を動かし、農地と向き合う。そんな近藤さんたちが何よりも大切にしているのは、新米を口に頬張る時間であり、そんな瞬間こそが幸せな日常をつくっているようだ。
近藤農場さんでは、どのようなお米を育てていらっしゃいますか?
近藤:この田んぼでは、「あきたこまち」「めんこいな」という秋田県の品種のお米を育てています。方言をお米の名前にした「めんこい(=かわいい)な」は、味のバランスが良く、冷めても硬くなりにくいので、どんな料理にも合うことから、あえて“特徴がないのが特徴です”と言ったりしています(笑)。約40ヘクタールの水田でお米を育てているので、毎年の収穫量は約240トンになります。
今回、青山のファーマーズマーケットへの北秋田市の出店が決まり、マーケットにこの土地で育ったお米が並ぶわけですが、出店を後押ししたのは、どのような理由でしたか?
近藤:私たちはこれまでB to Bでお米を東京の飲食店や施設などに卸してきたのですが、ファーマーズマーケットに出店することで消費者の方たちと直接関わりをもってみたかったことがひとつ。また、昨今の令和の米騒動で古米、古古米、古古古米などのお米が出回るようになりましたが、消費者の方がどのようなお米を求めているんだろうというのを確かめたかったことも理由にあります。そして、子育てが落ち着き、数年前より妻が手伝ってくれるようになったので、そういった子育て世代のお母さんたちの視点も見てみたかったというのもありますね。

「あきたこまち」はおそらく多くの人にとって慣れ親しんだお米でもあると思うのですが、時代による味に変化はあるのでしょうか?
近藤:「あきたこまち」は誕生して40年経つので、年配のベテラン米農家さんたちは、「昔のほうが甘味が強くて美味しかった」なんて言ったりもしますが、基本的にはそこまでの変化はないと思っています。ただ、以前は小規模でもさまざまな米農家さんたちがお米を育てていたので、それだけ品種のバラエティも豊かな時代だったでしょうし、同じ品種でも特徴の異なる味わいがあったのかもしれません。今は、大規模農家が育ってきていますが、かつてのベテラン世代が引退していくのは時間の問題でもあるので、味のバリエーションは同じ品種でもどんどん収斂されてきている。そういう意味では、味わいは安定してきたと言えるかもしれません。
お米を育てる上で苦労することは、どのようなところでしょうか。
近藤:これまで耐冷性だった品種改良が耐暑性に変化してきたのは、それだけ温暖化が進んだということだと思いますし、気候に合わせるのが一番大変ですね。昨今は秋田県でも気温が上がってきていて、夏を体感する時期も早まってきている。ただ、秋田のなかでも渓谷地域は高温障害が起きにくいようで、外食や卸しの方が安定した品質を求めてこの地域のお米を利用することは多いようです。
ちなみに、「あきたこまち」は今年から「あきたこまちR」になるって知っていましたか? これは、もともと秋田県が江戸時代以降、昭和初期まで銀や銅などの金属鉱山として発展してきた歴史にも関係しているのですが、重金属のカドミウムを吸いにくい、より安全な品種に改良されたんです。これにより、カドミウムを吸わせないための管理(稲穂が出る時期に水を張る等)も不要に。お米の安全基準もどんどん見直されているんです。

近藤農場さんの田んぼの水は、どこから引いているのでしょうか?
近藤:すぐ近くに阿仁川と小阿仁川の合流地点があって、その両河川の水を引いているのですが、河川の内側には肥沃な土が溜まるので、この地形を活かした米づくりをしています。美味しいお米を育てるには、穂が出てから高温を避けるというのはありますが、それ以外では天候対策と水の管理に気をつけてあげればよくて。例えば、真夏に水を張っただけではすぐにお湯になってしまうので、貯水と排水を繰り返して水温を管理することを常に心がけています。

これからの世代の人たちがお米をつくり、食べていくためには、自然環境を守りながら情報を繋いでいかなくてはなりませんよね?
私の親世代はみんな、家に田んぼがあったりしましたが、稲作だけでは生活できず、やがて農家に貸し出すようになりました。でも、その家の子ども世代や、それ以降の世代になってくると、もうかつての田んぼがどこにあったのかすらわからなくなってしまう。農地を維持するという意味では、国の多面的機能支払交付金などを利用しながら、「以降の世代」にも草刈りをしてもらうなど、地域の共同作業にも積極的に招き入れ、農地から離れてしまった人をもう一度連れ戻してあげることが重要になりますよね。70代、80代の農家さんたちは、もう事業承継していかないといけないですし、これまでお米をつくってきた農地を潰してしまうのではなく、引き継いでいかなければならない。だから、私がやるべきこととしては、できるだけ出てきた農地を受け入れ可能な状況にすることだと思っています。

秋には黄金に輝く稲穂を垂らす稲の苗
近藤:今はちょうど田植えの時期で、両親と妻とで作業をすることはできるのですが、田んぼの水の状態を見てまわる細かい管理作業もあったりするので、収穫シーズンはもちろんですが、田んぼを手伝ってくれるような方が来てくれれば、喜んでお米を分けるんですけどね(笑)。
東京で行列に並んで古米を買うよりも、秋田で田んぼを手伝いながら農家さんと知り合い、一枚でも自分の田んぼをもてたほうが、よっぽど豊かな暮らしができるかもしれないですね。普段、都市で暮らしていると、お米はスーパーに並ぶひとつの商品であって、農家さんがつくっている農作物として意識している人がどれだけいるかわかりませんが、価格だけに目がいく昨今の騒動を見ていると、そこまで想像が及んでいない気もしますし、都市のリズムと自然のリズムに乖離があるように思えてきます。高齢の米農家さんが、いつまでもお米をつくり続けられるわけではない。本来であればその現実に危機感を抱くべきなのに、どこか他人事として受け止めている節があって、だからこそ今、田んぼや畑の風景を“誰かのもの”ではなく“自分たちの暮らしと地続きのもの”として捉え直す必要があるのではないでしょうか。
近藤:やっぱり意識をしっかりと農地へ向けてもらうためにも、こうして米農家である私たちがファーマーズマーケットに出ることには意義がありそうですね。まずはそこが都市と農地の距離を埋めるきっかけになればいいのですが。
飛行機であっという間に来れる距離ではあるので、忙しい収穫期や仕事の合間に時間を見つけて、この場所でお手伝いするような関わり方もできそうです。
近藤:そうやって行き来できる関係がつくれたら理想ですね。そのときは、行きは飛行機で、帰りはぜひ新幹線で帰っていただけたらと思います。田沢湖や奥羽山脈を越える際の素晴らしい景観を眺めながら帰れると思います。
これからは、従来のように大袈裟な観光資源をつくるのではなく、自分が食べるお米をつくるために小旅行を楽しむような感覚で、自然のリズムとシンクロするように動くほうが時代に合う気もしますし、ひとつの都市だけで暮らすという思考をストレッチして、日本全体にまで視野を広げていきたいですね。それが、地方の資源を見直すきっかけになればいいですし、都市生活者にとってはリラックスできる時間にもなる。双方にとってメリットしかないわけですから。
近藤:これから第二市民制度というのもはじまるようですし、都心の人たちにも北秋田の自然を生活の一部として捉え直していただけたら嬉しいですね。
越境する阿仁マタギの存在

「マタギ」と聞いて、どのような姿をイメージするだろう。実はマタギのルーツは曖昧模糊としており、おそらくかつての倭人であったと考えられるが、弥生人とも混ざり合いながら“マタギ文化”として広がっていったはずで、それによって人々は狩猟の技術を身につけ、自然とともに生活する術を獲得していった。
狩猟採集(=縄文文化)を生業としていたかつての土壌の上に成り立っていた農耕定住(=弥生文化)により、人々は安定した食糧を勝ちとったが、獣にとっても畑は食糧の宝庫に変わりなく、農村からすれば、獣は作物を荒らす害獣にほかならなかった。しかし、それらを狩猟する技術を身につけていたマタギたちは、フクロナガサと呼ばれるナイフを使用し、ヒラ落としという落とし穴を掘り、いとも簡単にクマやイノシシを捕らえていた。当時は動物性タンパク質が貴重だったこともあり、マタギは、農村の人々から重宝される存在となっていった。

こうした江戸時代後期から昭和初期にかけての狩猟技術の広がりと生活における影響は、「阿仁マタギ」の存在なくして語ることはできない。天明の大飢饉で食糧難に直面していた江戸時代中期、ひとつの集落でこのまま狩猟を続ければ、獣を獲り尽くしてしまうと考えた阿仁マタギたちは、自ら集落を飛び出し、転々と旅するように全国へと散らばっていった。この阿仁地区や北秋田がマタギのルーツとして考えられているのは、西は兵庫に至るまで、こうしたマタギ文化を阿仁の旅マタギたちが広めたことにあるのだろう。また、鉱山で発展を遂げてきた北秋田(阿仁地域)には、全国から人々が出稼ぎに来るなかで多くの情報が集まったことから、まだまだ狩猟技術がない土地の存在、そして、そこで暮らす農村の人々とともに助け合える余剰があることを知ったからに違いない。こうして日本各地へと定着していった阿仁マタギたちは、農村の人々と手をとり、助け合いながら、“持ちつ持たれつの関係”を築いていった。
自然との距離とマタギの叡智

かつてマタギの中心地だった、阿仁根子の集落
しかしながら、毛皮の需要が高まった明治維新以降、太平洋戦争の時代にかけて増えていったのは、本来のマタギとは異なる“にわか猟師”の存在だった。彼らは自然と向き合うことなく、資源を奪うためにマタギを名乗り、山へと入った。その行為は、持続可能な自然の循環を重んじる本来のマタギとは真逆のもの。マタギたちは、山の資源をあくまでも“暮らしの足し”として、必要以上は奪わないという価値観を貫いてきた。その慎ましさと倫理感が、山間部と人里の間にある“距離”を調整し、バランスを保ってきたのだ。

大太鼓の館にずらりと並ぶ世界一巨大な大太鼓は、ギネスにも認定される
こうした自然との関わり合いを忘れまいと毎年行われているのが、鎌倉時代より北秋田の綴子地区で750年以上にわたり続く「八幡宮綴子神社例大祭」だ。もともとは農村における雨乞いや虫追い、五穀豊穣を祈願するための行事としてはじまったこの祭りは、巨大な太鼓を打ち鳴らすことで自然への畏敬の念を表してきた。自然と人との距離感を育み、その大切さを再認識させるという意味では、この祭りはマタギ文化に通じる文化遺産とも言えるだろう。
自然との距離を上手く保ちながら、言わば“半自然”のなかを生きている北秋田の人々にも、そこからさらに一歩踏み込み、野生の世界へと身を置く生き方を選んだマタギの人々にも、人間の多様な在り方を互いに認め合い、それぞれが得意とする役割を全うしながら助け合えるような関係性を築いてきた共通点がある。クマを捕るのが上手い人、鍋をつくるのが上手い人、たくさん荷物を運べる人、山には山の、里には里の役割がある。お米を育てるのが上手い人もいれば、書類をまとめるのが上手い人、人々を繋ぐのが上手い人だっているだろう。
トレイルランニングにソロキャンプ、すっかり定着したジビエ料理、どんなかたちであれ、自然との距離が遠のいていた都市部の人々が純粋に自然との触れ合いに惹かれ、距離を縮めはじめたことは、いい兆候のように思える。今こそ、自然との距離を保ってきた北秋田、そしてマタギの人々の叡智に学びながら、山においても、里においても、そして都市においても、この“持ちつ持たれつの関係”を拡張していくことで新たな関係性を築くことができれば、都市部での生活は、もっと逞しいものになっていくはずだ。
(Info)
上杉組
上杉操|Misao Uesugi
Web
大太鼓の館
〒018-3301 秋田県北秋田市綴子大堤道下62−1
OPEN:9:00〜17:00
Web
マタギ資料館
〒018-4731 秋田県北秋田市阿仁打当字仙北渡道上ミ 67
OPEN:9:00〜17:00
Web
Photos:Hinano Kimoto
Words & Edit:Jun Kuramoto(WATARIGARASU)
SEEKING KITA – AKITA|ニューマタギイズム 〜北秋田市の自然とともに暮らす人々〜【前編】
2025.7.21