ワーケーション、グランピング、トレッキング、都心のあちこちで開催されているファーマーズマーケットもそうだろう。ここ数年の都市部のトレンドからは、“自然との距離を縮めたい”という、人々の意識が垣間見える。しかし、その自然を愛でたいといったふうの“意識”に反して、令和の米騒動に端を発する通り、自然の恵みである食べ物の問題が起こると他人事の大騒ぎだ。この矛盾した都市生活に対するひとつの解決策は、「マタギ文化」が今だに宿る北秋田市の人々の暮らしを知ることで見出せるかもしれない。自然と共存することで、その資源を生活の足しにしてきたマタギ。豊かな自然とともに、逞しく生活している農家さんたち。それらが交わった今の北秋田市における暮らしぶりを「ニューマタギイズム」として目を向け、この7月末(及び11月)にファーマーズマーケットに出店予定の農家さんたちに話を聞いていった。
SEEKING KITA-AKITA
日時:2025年7月26日(土)、27日(日) 10:00〜16:00
会場:国際連合大学・前庭(〒150-0001 東京都渋谷区神宮前5-53-70)
参加事業者:上杉組/近藤農場/栄物産/しらかみファーマーズ/鷹巣観光物産開発/ふかさわファーム/みんなの畑/やまだ農園
縄文文化が根づく土地
東京・羽田空港を出発し、水平飛行に切り替わるやいなや着陸態勢に入る。うとうとする間もなく北秋田市の空の玄関口である大館能代(おおだてのしろ)空港へと到着した。搭乗時間はおよそ70分。あっという間のフライトに拍子抜けしながらも、早速、世界文化遺産にも登録されている「伊勢堂岱(いせどうたい)遺跡」へと向かった。

伊勢堂岱遺跡を象徴する、板状土偶
伊勢堂岱遺跡の北側には、世界自然遺産に登録された白神山地が広がる。青森と秋田を跨ぐ巨大な山岳地帯であり、1993年に屋久島とともに日本ではじめて世界自然遺産へと登録された。縄文人が空を仰ぎ祈りを捧げたこの場所から、今なお変わらぬ悠久の森を臨むことができるのも、伊勢堂岱遺跡の魅力のひとつだ。

伊勢堂岱遺跡から臨む「白神山地」の山並み
その存在が発見されたのは、道路工事に先立つ発掘調査を行った90年代と比較的、最近。遺跡を覆う「くろぼく」と呼ばれる黒色土が敷き詰められた土地から、次々と縄文土器が見つかったそうだ。遺跡の発掘による交通計画の頓挫は、道路の橋脚をこの地に残したまま、これまでに4つの環状列石(ストーンサークル)と数多くの土器、さらには土偶を出土させた。それらの起源は約4,000年前の縄文後期まで遡るというが、世界文化遺産に登録されたのは2021年7月、北海道・北東北縄文遺跡群としてであり、遺跡の発見から29年後のことだった。

4つの環状列石(ストーンサークル)のうちのひとつ
ちなみに、遺跡一帯の土が黒いのは、縄文人たちが野焼きをしていたからだという。要するに、土に炭が混ざった土壌がこの土地の歴史と文化の礎となっている。食料を保存するツールとしての器、耳飾りなどのアクセサリー、なかには祈祷に使用されたようなデザインのモノまで。石や土を使用してつくられたそれらの造形物からは、縄文人たちが生活をより豊かにしようと、工夫を凝らしてきた形跡が窺え、狩猟採集を生業としていた縄文人からの影響が「マタギ文化」のルーツに色濃く残っているのだろう。
こうした歴史や文化的背景を踏まえつつ、ここからは、北秋田の地で暮らす農家さんたちを紹介していく。
“日本の農業を変えるのは、現場の力”

栄物産の藤嶋佐久榮さん
栄物産の藤嶋さんは、人との出会いから農業に導かれた方。北秋田で生まれ、その自然とともに過ごした幼少期を振り返りながら、人生を変えた転機について、また、この北秋田の白神山地の麓の恩恵に授かりながらも、常に時代と衝突し、独自の視点で強く生きてきた藤嶋さんの人生観について聞いた。
栄物産さんの畑では、どのような作物をつくられていますか?
藤嶋:ミニトマト、ビーツ、ケール、大葉、食用のエディブルフラワーなどの作物を育てています。トマトはハウス栽培ですが、実割れしたりと湿気が苦手な野菜なので、地面には籾殻(もみがら)を敷いて湿度を保つようにしていて。「さくちゃんのえがお」というトマトで、まだ青々してるけど、もう少ししたら赤く色づく季節になるな。
どのような栽培方法でトマトを育てていますか。
藤嶋:一般的な農家さんとは少し変わった育て方をして、肥料は独自につくっているな。化学肥料は極力使わないようにしているし、農薬や殺虫剤も使わない。その代わり、炭酸ガスをナノバブルの機械に通して、pH値をコントロールした酸性の水を1,000倍に薄めて与えることで、虫や病気を抑えています。酸素が行き渡ることでトマトも元気になるんだ。トマト農家じゃなくて多品種を自由に育てているから、固定概念に縛られずに独自の栽培方法で野菜を育てることができている。

青々と実った「さくちゃんのえがお」
畑をやっていて、北秋田市の自然の恩恵を受けていると感じることはありますか?
藤嶋:やっぱりあるな。白神山地の湧き水を近くの農家からわけてもらった鶏糞や籾殻に混ぜて堆肥をつくっているんだけど、その水が含んでいるバクテリアに特別な作用があるみたいで、普通だと1年ぐらいかかる堆肥づくりが1ヶ月でできてしまうし、この水を希釈して使うだけで肥料を使わなくても美味いお米ができる。発見が割と最近だったから、使いはじめたのもここ数年だけど、1ℓの湧き水で50tぐらいの堆肥ができてしまう。もう、すごい力だ。お陰さまで、トマトもお米も「他所とは味が違う」と言ってもらっていますよ。

藤嶋さんは、いつから農業をはじめられたのでしょうか。
藤嶋:こどもの頃から親の手伝いで当たり前に畑や山に入っていたので、職業というよりも、農業は生活の一部みたいなものだった。この場所はおれが2代目で、小学生のころから手伝っていたこともあって、中学生の時には一人前に作業してたかな。農地開拓以前の時代だったから、採れてもじゃがいも、大豆、小豆ぐらい。一番の収入源は、葉タバコだったころだな。肥料もなかったから牛や馬を飼って、その堆肥で作物をつくっていた。品種が増えてきたのは、時代とともに機械が入ってきて土地が肥沃になってきてからじゃないかな。当時の日本は高度成長期で、男の人はほとんど秋田を出て都心へ出稼ぎに行く時代。おれも関西に行ったけど、そこである女性と出会ってね。北海道から出稼ぎに来ていた方で、その女性に「あなたは何でこんなところで働いているの?」と聞かれたんだ。だから、逆に「あなたはどうして出稼ぎに来たの?」と聞いたら、「海外へ留学するため」って言うんだよ。

藤嶋:当時の女性としてはハイカラだったし、そんな考え方があるのかと、まるで大きなハンマーで頭を殴られたような衝撃を受けた体験だった(笑)。おれは、その日暮らしのような生活をしていたから、それからは自分の考えを改め、日本の農業をもっと育てることに興味をもちはじめたんだ。それで、アメリカや世界の農業先進国の知見を借りなければと、カリフォルニア州へと渡って、カリフォルニア大学デービス校に通った。当時は確か昭和44年(1969年)だったから、今からもう50年以上も前のことになるな。
1970年代以前からアメリカにいらしていたなんて、すごいですね……。ビートルズが解散したころですね。
藤嶋:当時は誰もがアメリカに行ける時代じゃなかったし、おれも高校へは行ったけど、農業高校だったし、家庭の事情もあって1年ぐらいしか通わせてもらえてなくて。大卒、最低でも高卒でないとアメリカへ行く資格がもらえなかったから、履歴書をこう、「えい!」っとして(笑)。それで、英語のテストなんてほとんどできなかったけど、面接官に「日本の農業を変えるのは、現場の力だ!」と大洞吹で食い下がったら、後日、特別採用でアメリカへ連れて行ってもらえることになって。実際には大学に通うというより、時々レポートを出すぐらいで、ほとんどホームステイ先のファームで暮らしながら日々土を触っていたんだけども、アメリカの現状を見る限り、日本の農業は50年は遅れていたので、じゃあ、日本へ帰って何をやるかと考えたときに、ある程度予測を立てることができたんだ。

帰国されてからは、どのようなことに挑戦されたのでしょうか? また、現在のかたちで栄物産として農業をするに至った経緯についても教えてください。
藤嶋:アメリカから帰国して、今のかたちになるまでには紆余曲折あったんだけど、日本に戻って何をやるかと考えたときに、まずは花をやろうと思ったんですよ。その前とは違い、生活に花を飾る余裕が出てきた。じゃあ、輸入するよりも日本で育てたほうがいいだろうと、今度は花の栽培を学びにオランダへ。ところが、干拓地に広がる広大なハウスを目の当たりにして、日本の土地ではいくら頑張っても生産が追いつかないだろうと諦めることにして、今度は和食がくると踏み、つまものに目をつけました。日本の生活水準も上がったし、和食であれば輸入に頼ることもないだろうと、当時、そのほとんどの生産を担っていた豊橋へと向かったんだ。ただ、そこでは誰も教えてくれる人がいなくて独学だったんだけど、どんなに質のいいものをつくっても買い叩かれてしまうし、全国に送るには時間がかかってしまい、鮮度も落ちてしまう。そこで、広大な土地のアメリカを思い返して目をつけたのが、飛行機の流通サービス。これなら東京、大阪、札幌、どこへでも朝採りの鮮度を保ちながら農作物を運べるし、暑い地域には寒い地域で育つモノを、その逆も然りで、距離を埋めることで旬の作物を高く売れるようにしたんだ。

藤嶋:当時の日本でもハウス栽培は普及していたものの、温度を管理するための燃料費もバカにならないし、列島各地のさまざまな気候の差異を利点と捉え、冬場は山菜を育て、夏場はほかの土地では暑くて育たない作物を涼しい北秋田で育てることに。すると、運良く作物が売れはじめたので、税金対策をしなければと会社にしたのが20年前。その後のコロナ禍では育てる作物をより健康的な視点に切り替え、腸内環境を整える働きのあるヤーコンや菊芋、チョロギなども育てることにしたし、今日まで大変な状況をたくさん経験してきたけど、続ければ、何だってやり遂げられるんだということだけは伝えたいですね。
この辺りも過疎化が進み、若者がいないことに加え、高齢者も外に出て仕事ができる人が少なくなってしまっている。寿命は延びていても健康寿命は縮んでいる現実もある。こんな時代になるとは想像もしなかったけど、だからこそ、これからもますます考えながら強く生きていかないといけないと思うんだ。

山の斜面に繁茂する山菜、ミズ(ウワバミソウ)
自然とともに暮らすための知恵も、きっと強く生きていくために代々受け継がれてきたモノでしょうし、途絶えさせてはいけないですよね。藤嶋さんにとって、これからの時代を生き抜くための力になるのは、どのようなことだと思いますか?
藤嶋:80年というこれまでの人生が、人との出会いによって変化してきたように、これからもいろいろな人に出会って生きていきたい。新しいアイデアにも繋がるだろうし、それを楽しみにしていますね。だから、こうやってお話しできることが嬉しいんです。最近は誰も山に入らなくなったでしょう。この時期の山には山菜がたくさんあるし、採った山菜は葉っぱで包めばビニール袋だっていらないわけで、生きるための知恵は昔からいくらでもあった。そんなことも一緒に伝えていけたらいいですね。

“失ってしまった自然との繋がりや感性をとり戻すために”

「みんなの畑」をとりまとめる、金田悦子さん
価格競争に飲まれず、一生懸命に農作物を届けようと切磋琢磨する地域の農家さんの想いを背負い、小さくても互いに助け合えるコミュニティの形成を目指して発信するのは、合川地区でお米をはじめ、きゅうりなどの野菜をつくる金田悦子さん。手づくりにこだわる郷土料理「きりたんぽ」の味は、この地の自然とともに残し伝えていくべき文化そのものだ。
金田さんは、どうして地域の農家さんたちと手を組み、「みんなの畑」を立ち上げられたのでしょうか?
金田:個人的にはお米をメインに、夏はきゅうり、冬はきりたんぽづくりを生業にしているのですが、この地域でマルシェ活動もしているんですね。そこでの農家さんとの繋がりもあったので、野菜を中心とした農作物をこの地域や退職された方々と一緒に集まってつくろうとはじまったのが、「みんなの畑」なんです。

寒暖差の激しい環境で育ったきゅうりを佃煮にした、冬場の保存食「きゅ〜たん」
金田さんのきりたんぽが美味しいと事前に伺っていたのですが、秋田名物ということで、やはり、みなさんには欠かせない郷土料理なのでしょうか?
金田:もともとJAがきりたんぽセットを販売していたんですけど、製造をやめてしまったんですよ。じゃあ、と自分の畑のお米を使ってつくりはじめたのが最初のきっかけなんです。きりたんぽは、北秋田市の南西部に位置し、阿仁川と小阿仁川が合流する合川地区でずっと親しまれていた料理だったので、自分たちでも継承していくために必要な資格を取得して実現させました。秋田県北部は特にきりたんぽ料理が根づいていて、南下していくと“だまこ”と呼ばれたり、山形に入ると芋煮になったり、いろいろ変化していくみたいですが、そのはじまりは、マタギの人たちが寒いからと山で鍋をしたときに、おにぎりを煮て食べたことだと話で聞いたことがあります。

この機械は、きりたんぽ専用なんですか?
金田:そうです。火入れはこれでやるのですが、成形は必ず手で行うようにしています。そうしないと空気が含まれないため、ふっくらと仕上がらず、本来の甘みや食感が損なわれてしまうんです。そこが絶対に譲れないポイントですね。最近は、杉の木で串をつくる串職人も少なくなってきていますし、今使っているものは何ひとつ欠かすことができません。
そうした“支える人たち”との関係がひとつでも欠けてしまうと、文化そのものが失われてしまう可能性もあるように感じます。今、きりたんぽをはじめとする郷土料理、作物をめぐる環境について、どのように感じていますか?
金田:お米の話になってしまいますけど、これまで米農家さんが40年も50年もお米をつくってきたのに、ここのところ少し値段が上がったからって、どうしてお米だけこんなに騒がれるんですかね? ほかの野菜だって倍ほど値段が上がっているし、20日間ほどしか使用しないコンバイン(お米を収穫する農機具)が値上がりして何千万円もするのに、お米の価格だけが変わらないことのほうがおかしい。買い叩かれて農家さんが生活していけない状況をつくってしまうから、自分の子どもにも「継いでほしい」と言えない状況ができてしまう。何でも大きく大きくって言うけど、もし大規模農家が倒産してしまったら、その大きくした畑もなくなってしまうわけじゃないですか。だから、小さくても、みんなで作物を育てていける状況が必要だと思うんですよね。
そういった現状を少しでも改善するためにマルシェなどもやられているとお見受けしますが、ほかにも積極的に活動されていることがあるそうで。
金田:お米を育てる背景や農家さんの努力よりも、まずは自然の大切さに目を向けてもらえるよう、毎年夏の時期に「生きもの調査」というのをやっているんです。講師の先生をお招きして、地域の子どもたちと一緒に田んぼにいる生物を調査するんです。今の子たちって、田んぼに入ったことがないじゃないですか。だから、そういう経験を身体で覚えてもらいながら、今年からは農家クイズという、お米に関する88の手間クイズを出していて。そういった体験を通して安心、安全なお米づくりと生きものとの関係を楽しく学べる機会になればいいな、と。

比内地鶏のきりたんぽ
農地へと戻るひとつのきっかけになってほしいという想いもありますか?
金田:そうですね。利便性や生産性に捉われ、いつの間にか失ってしまった自然との繋がりや感性をとり戻すために、私たちがやらなければいけないことはありますよね。小さいころにそういった感覚を足の裏で覚えておけば、いつかきっと役に立つ時がくると思うんです。ここにはその環境がありますし、私も農業を教えることはできる。でも、私ももう若くはないですから、この地域で完結するのではなくて、もっと外からも人が行き来してもらえるような状況ができないかと模索しているんです。都心からもこういう場所で身体を動かしたりしてリラックスしてもらいながら、美味しいお米を食べてもらう。私たちは代わりにSNSの発信の仕方や写真の撮り方を教わりたいですし、互いに与え合えるような関係性が築けたらいいですよね。

生き物調査をする地域の子どもたちの様子(提供写真)
“建設業の機械力で土を起こし、農地を復活させよう”

しらかみファーマーズの金信人さん(左)と、専務の九島平悦さん(右)
北秋田で建設業を営む3社が農業を志し、にんにくの栽培からはじまった「しらかみファーマーズ」は地道に経験を積み重ね、土づくりから栽培技術まで建設業ならではの知見を活かしながら、白神山地に臨む大地で農地の再生に努めている。これまで体当たりするようにチャレンジしてきた農業では、トライ&エラーを繰り返しながらも農地を開墾し、収穫量を安定させてきた。そんな「しらかみファーマーズ」が目指すのは、にんにくを自社ブランドとして確立させること以上に、北秋田をその一大産地にすることだ。
まずは、しらかみファーマーズの成り立ちについて教えていただけますか?
九島:東日本大震災があった平成23年3月に設立した会社なのですが、その前年に秋田県信用組合さんが北秋田市の異業種を16社ほど集め、地域活性化を目的とした「田舎ベンチャービジネスクラブ」という勉強会を設けてくださり、月に一度、経済人などのゲストをお招きしながら、交流の場で情報交換させていただいていたんです。それで、1年ほど経ったときに、建設業を営む3社で農業法人をやろうとしらかみファーマーズを立ち上げました。
どうして農業をはじめようと思われたのでしょうか?
九島:低標高の洪積台地上に広がる大野岱(おおのだい)には、かつて畑作が盛んだった広大な農地があり、白神山地に臨む自然と人の営みが共存する開墾集落が複数形成されていたのですが、後継者問題などもあり、耕作放棄地となってしまっていたんです。そこを建設業の機械力で土を起こし、農地を復活させようという流れのなかでにんにくを植えてみようという話になり、農業法人を立ち上げ、栽培をはじめました。「田子にんにく」という青森のブランドがすぐ近くにあったので、彼らににんにくの栽培方法を聞いてみると、「上手く育つまでに3〜5年はかかるだろう」と言われてしまったのですが、建材として使われていた十和田石(とわだいし)という、秋田の天然石を砕いて粉状にした十和田石粒を土壌改良剤として使用することで、酸性の土壌を弱アルカリ性に変化させることができたんです。それがにんにくの栽培に適していたようで、2.5ヘクタールの面積を2年目には11ヘクタールまで増やしたりと異業種のノウハウが功を奏し、栽培は順調に進みました。

収穫したての「あきたしらかみにんにく」
九島:ところが、その収穫時期に観測史上稀にみるような大雨に見舞われてしまい、にんにくが水没してしまったんです。私たちもまだ素人でしたので、すぐに収穫しておけばよかったのですが、雨で掘り取り(=収穫)に手間がかかることから、特に育ちのいいものを畑に残しておいただけに、そのショックは大きかったです……。その事件をきっかけに、いいものは大切に扱っていかないといけないと学びつつ、立ち上げ時より計画にあった加工品の黒にんにくを前倒しすることに。すると、それが大成功。というのも、中国産のにんにくが衛生上で問題になったことで輸入がストップし、大手の食品会社等が国産に切り替えたタイミングと重なっていたんですね。青森よりも秋田のほうが2週間ほど収穫時期が早いので、早々とにんにくを集め、販売し、併せて加工品の「白神フルーツ黒にんにく」とともに驚くほどの売上となりました。
しかし、いい話はそう続かないものですね(笑)。その翌年、土壌と種の両方に連作障害が起きてしまい、価格、収量ともに落ちてしまったんです。その後も、コロナ禍で需要が伸び悩んだり、国際情勢の変化によって肥料が高騰する等の紆余曲折を繰り返しながら、何とか今日までにんにくの栽培を拡大してきました。北秋田がにんにくの一大産地となり「あきたしらかみにんにく」というブランドが広く認知されることで農地が広がり人も戻ってくる。そんな、かつての大野岱の風景をもう一度見られるように、これからも頑張っていきたいと思っています。
作物ひとつをとっても、世界的な状況と切り離すことはできないですし、波乱万丈のスタートを潜り抜けてこられたんですね。ところで、にんにく以外にも加工品をつくっているとか。
九島:いぶりがっこをつくっています。一般的な大根とは品種が異なり、細長いモノを使用するので、つくり手が少なく栽培も難しい。むしろそれなら、と着手することにしたんです。にんにくは10月に植付けし、6月下旬に収穫するのですが、そのあとに種を蒔き、にんにくの植付けが終わるころに収穫できる大根は、私たちにはピッタリの野菜でした。
では、ここからは金(こん)さんに黒にんにくの製造工程を紹介してもらいましょう。

金:収穫したにんくは、水分でカビてしまわないように、まずは35℃の温風で3割ほど乾燥させていきます。そして、乾燥させたにんにくの根を専用の機械で掃除したら、今度はこの高温熟成機に入れて、発酵・熟成させていきます。この部屋でも毎日換気しながら製造しているのですが、にんにくから出る水蒸気がどうしても天井に上がってしまうので、それによって蛍光灯が何度も故障してしまうんです。

にんにくの根をきれいに掃除するための機械
金:高温熟成機に入れる前のにんにくは、温度と湿度を調整した部屋で一時的に保管し、実をひとつ一つばらしてからプラスチック容器に入れ、熟成を促していきます。

金:今度はアルミのカゴに移し、密閉。ここから先ほどの機械に入れていきます。機械のなかでは温度にムラができてしまうので、3日に1回は手動で位置をローテーションさせるようにしています。機械から出したあとは、アルミの蓋を外し、最終段階へ。合計32日間、3つの段階を踏み、ゆっくりと熟成を進めていきます。

金:熟成期間のうち、特に最後の数日間は味の変化が著しくなるため、5日間は毎日検食して、苦味が出てきていないか確認するんです。そのあとは、さらに常温で2週間ほど追熟させ、このような工程を経て「白神フルーツ黒にんにく」が完成します。
苦労に苦労を重ねて、黒にんにくができているんですね。いぶりがっこの製造でも難しいポイントはありますか?

大根を燻すための小屋
金:いぶりがっこは、「燻し8割」と言われるほどで、桜の木で三日三晩燻す作業が味を決める上で重要なポイントになるのですが、この時だけは目が離せないので、寝ずの番をしながら火加減を見極めなければなりません。最近は棚に置いたりする方法もあるのですが、私たちは伝統的なやり方を貫き、紐で大根を吊るして燻しています。
金:小屋には一回で約1,500本の大根を吊るしていきます。まず大根を燻し、それから大根を洗って、ぬか漬けに。漬けたあとは最後にもう一度だけ大根を洗い、梱包していきます。
黒にんにく、いぶりがっこ、それぞれの製造風景を知れば知るほど、その大変さが伝わってきました。
金:にんにくの収穫は夏場に行うので、体力的にも大変な作業になりますが、この生にんにくの収穫期だけの楽しみもあるんです。それは、スライスした生のにんにくを醤油とみりんのタレと合わせて、そこに卵の卵黄を漬けておくのですが、それをご飯に落として食べると最高なんですよ。旬のモノを食べる喜びもありますし、これさえあれば、忙しい収穫期も乗り越えることができるんです。

(Info)
伊勢堂岱遺跡
〒018-3454 北秋田市脇神字小ケ田中田 100-1
Web
Facebook
X
栄物産
藤嶋佐久榮|Sakue Fujishima
Web
Facebook
Instagram
みんなの畑
金田悦子|Etsuko Kanada
Web
Instagram
しらかみファーマーズ
小林郷司|Satoshi Kobayashi
九島平悦|Heietsu Kushima
金信人|Nobuhito Kon
Web
Photos:Hinano Kimoto
Words & Edit:Jun Kuramoto(WATARIGARASU)
SEEKING KITA – AKITA|ニューマタギイズム 〜北秋田市の自然とともに暮らす人々〜【後編】
2025.7.21